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旅行・地域

2014年9月27日 (土)

金ヶ崎の退き口

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織田信長にとって、最大の油断は本能寺の変であり、最大のピンチは金ヶ崎の退き口であろう。天正元年(1570)4月25日、朝倉氏を攻めるべく敦賀に進出した。天筒山・金ヶ崎両城に籠る朝倉勢をを攻め、1日で天筒山城を落した。翌日、金ヶ崎城も開城させ、いよいよ木の芽峠を越えて、朝倉氏領国へ攻め込む段となった。

 Nokiima_2しかし、義弟の近江国浅井長政が朝倉氏との同盟のtめに挙兵。朝倉・浅井に挟み撃ちになる危機。信長は殿(しんがり)を木下藤吉郎に命じて、一気呵成に丹後道、西近江路を京に撤退した。この時、妹お市の方が小豆を入れた袋の両端を結んで信長に送って長政の挙兵を知らせたという説がある。俗説であろうと思う。やはり、乱破・素破による諜報活動の成果であろう。

2014年9月24日 (水)

飢饉の面影・無縁塚

Img_8990_640x562江戸期は今浜村、旧松原村に時宗寺院来迎寺がある。隣接して各寺院の共同墓地がある。また、隣接して水戸天狗党の墓地がある。この辺りを来迎寺野は処刑場に使われた。この共同墓地、無縁墓が散在するが、中央辺りに江戸期天保の飢饉のおり、餓死者への無縁塚が一際高く、異形で建っている。(左図)塚には「天保九戌戌年七月新建 永世七月十七日於当寺令修業施餓鬼供養者也」とある。江戸期敦賀の町でも、商業の発達によって北前船の船主、問屋などが富を蓄え、農村に於いてKikinbuen_2自作農(本百姓)の没落、小作人化が進み、貧富の差が拡大していったとこに、天保・天明の飢饉が襲い、多くの餓死者が出た。転じて、江戸期出村、旧松原村、現在敦賀市松栄町の江州庵にも無縁塚がある。(右図)敦賀の町で8百数十名の餓死者が出たという。身寄りのない500人ほどの人を江州庵に埋めたという。しかし、この庵の無縁塚何故か新しい。

2014年9月23日 (火)

飢饉の面影 甚三郎の供養石仏

Ikenokoutimiti敦賀の東南、滋賀県との県境近くに木の芽川源流地帯に域の河内湿地がある。そこから敦賀市街に通じる山越えの生活道があった。車両の道が通じるまでは、近江から敦賀に通じる日常的な生活道であった。また、往古敦賀の東浦の塩を上方へ運ぶ「塩の道」でもあった。古老の言い伝えでは、雪が積もった時には、子供たちは町の学校へはスキーを使ったという。峠に、江戸期天明の飢饉で、村一揆で処刑された杉箸村の甚三郎の供養石仏があるという。訪ねた。今はこの道、雑草・灌木・倒木で歩行もままならない。(左図)敦賀の街から峠に登ると、途中から歩行が困難になる。道程も長い。池の河内から峠に向かう。雑草を分け、灌木を払い、倒木をくぐり、または乗り越えて峠に向かう。いつしか、平坦な道になる。峠であるが目指す甚三郎の供養石仏が見当たらい。慎重に探すと、大きな木の幹の傍らにあった。40cmほどの小さな石仏である。Img_0229天明の飢饉の折、各村の百姓が町の商家を襲った打ちこわし一揆の首領のひとりとして、杉箸村の甚三郎は、来迎寺野で処刑された。以前、杉箸村の村人達は毎年供養したという。何時頃まで定期的に供養されていたのかは、定かではない。そして、道もいつしか利用する人もいなくなり、道は消えゆこうとしている。石仏もいつしか歴史の無常のなかに埋もれていくのだろう。

2014年8月17日 (日)

お盆過ぎ

Tourounagasi子供の頃、旧盆が過ぎると親から海で泳ぐことを禁じられた。クラゲが多くなる。そして、夏休みの宿題をやることを言われた。お盆を過ぎると夏が過ぎゆくのを感じたものだ。8月16日、気比の松原では「灯篭流し」が行われる。精霊流しだ。この仏事とともに、盛大な花火が打ち上げられる。しかし、今年は天候不順、開催が危ぶまれたが、決行された。小雨が降っていた。家の中で、打ち上げる音を聞いていた。窓ガラスを響かせる。近年打ち上げ数が減ったとか、「日本海側最大の花火大会」の宣伝文句も聞かない。地方経済の停滞?原子力発電所の長期停止が原因?夕凪の海面にゆらゆらと浮かぶ数多くの灯篭の風景がいい。

2014年8月 4日 (月)

近代化への道

Azoto国道8号線を敦賀市阿曾地区から五幡に向かうと、落石防禦鉄柵の中から海側に左の画像の手掘りの古いトンネルと旧8号線が見える。明治初期、福井県で最初の手掘りトンネルある。車両のための道路国道8号線(敦賀街道)の一部である。明治政府は近代国家建設を急いだ。日本海側最初のの鉄道敷設が敦賀まで明治15年、それに呼応するように、国道8号、27号線、車両のための道路が開設された。昭和20年代、「くろがね」なるオート三輪で未舗装で、ほとんどの区間が1車線で、海岸線を縫って走った。遠い記憶の中にある。国道27号線は、鉄道の拠点である敦賀への貨物輸送のためでもあったが、軍港京都府舞鶴港と敦賀を結ぶ戦略道路の役割を担った。

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太平洋戦争、この小さな町は大陸経営の戦略港であるがゆえに、米爆撃機の洗礼を受けた。市街地のほとんどは焦土となった。しかし、戦後復興のための道路つくりは、大英断のもと広い道路が整備開設された。昭和20年代のころはほとんど未舗装で、通行車両もまばらであった。広い道路の両脇は人の歩行によって固められたが、中央付近は盛り上がり雑草が生えているところがあった。交差点で子供たちは野球などやって遊んだ。焼け跡に整備された広い道路は敦賀のインフラ資産となった。

しかし、戦後日本経済の高度成長と共に、モータリゼーションの進展は運送体系を席巻する。敦賀を走る国道には郊外にバイパスができ、高速道路も整備された。旧の道路沿いにあった飲食店などが廃業する。道路の近代化は町のにぎわいを削ぎ、町の様相を変えていく。古来からの結節点としての存在性から、敦賀は通過点、「jジャンクションの町」と化していくのでは?

2014年8月 2日 (土)

古い道

Kinome_3敦賀は関ヶ原のように衝地(くち)のような地域にある。四方からの道が交差する地域であるが、敦賀はその一方すなわち北法が日本海に面している。その他三方が山に囲まれている。当然、古来より交通の要地になる。日本海海運の歴史は割愛する。敦賀には、越への道

木の芽古道をはじめ、深坂古道 (塩津街道)、鹿蒜道、、

七里半越え(西近江路)、黒河越

えなどがある。そのうち現存するのは、木の芽古道と深坂古道の一部である。木の芽古道は北陸への道で、天朝7年(830)頃までに開通し、明治初期まで官道であった。その後、海岸沿いに車両の道、敦賀街道が開通したのち廃道となった。千年の官道であった。幾多の旅人が行き交い、曹同宗開祖道元禅師、一向宗蓮如もこの峠を越えた。

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 深坂古道は近江の国へ通じる。別名塩津街道とも言い、琵琶湖水運の拠点塩津に通じる。古代より紫式部をはじめ、貴人も多く都よりこの道を経て、越の国に向かった。今は、この古道はハイキングコースになっている。またこれらの街道の墓には、賤ヶ岳の戦い、越前国朝倉氏滅亡のっ高いとなった刀根坂の戦いの古戦場である刀根坂越えがある。この刀根坂ルートは近江国に最も勾配が少なく、日本海側最初の鉄道開設となった。その他に、日本書紀には角鹿海の塩が畿内に運ばれた説話や、近江商人が敦賀、若狭地方の塩を運んだ「塩の道」があった。これらの古い道は、連綿としてその役割を果たしてきた。それは取りも直さず敦賀の中継点としての重要性を示す。

2014年7月24日 (木)

南北朝争乱古戦場 金ヶ崎散歩

Img_0062金ヶ崎天筒山の古戦場にいくつかの神社が鎮座する。散策の折、それぞれの神社に柏手を打つ。金崎宮の駐車場から参道の石段を登る途中、右手に小さな神社「愛宕神社」がある。
明治23年創建の金崎宮より以前からある。江戸期の石灯篭などあり、説によっては、延喜式神明帳にある越前国敦賀郡の「金前神社」と比定する。真偽は定かではない。梅雨、周囲のアジサイが冴える。

石段を登りきると、金崎宮が桜の木々に囲まれて鎮座している。Kaneyoru


皇居前の楠正成の銅像のように、南北朝争乱の南朝を奉ずる神社である。
尊良(たかなが)親王・桓良(つねなが)親王を祀る。桜の名所で、春には市民憩いの場でもある。また、この神社には桜の小枝を交換する「縁結び」の風習がある。今は、男女の恋情を交わす行事になっている。この金崎宮には男女の参拝が多いようだ。艶なることではある。

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金崎宮本殿隣に摂社絹掛神社がある。延元2年(1623年)金ヶ崎城落城の際、総大将新田義顕以下自刃した321人の無名兵士を祀る。氏名が判明するのは十数名、近畿、中国、四国からの兵士であり、敦賀を中心とした北陸地方からも多い。籠城五か月余り、食糧尽き果て、馬をも喰らい、果てた。この神社に、ふと深く祈る。

金崎宮から登ること5分ほどで、金ヶ崎城址(別名月見御殿跡)に着く。海抜86mのところにあるが、敦賀湾に面した断崖にある。断崖下の敦賀新港から敦賀湾を一望できる。、Tukimiten
金ヶ崎から天筒山に続く遊歩道には、一~三の木戸、兵糧庫跡などの史跡がある。兵糧庫跡からは焼米が出土した。
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木戸跡tp遊歩道

2014年7月20日 (日)

舞鶴若狭道全線開通

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舞鶴若狭自動車道「敦賀衣掛大橋」(全長560メートル)

本日7月20日午後3時、敦賀から若狭地方を通って舞鶴方面に結ばれる「舞鶴若狭自動車道」が全線開通した。若狭国(江戸期小浜藩)現在では福井県に含まれるが、木の芽山地を境に苓北・嶺南地方に二分される。もともと2つの国、歴史も文化も多分に相違する。敦賀から若狭地方(嶺南)の言葉は京都、大阪の上方弁に近い。その中で、敦賀は古代から中世まで、越前国の入り口として越前国に属していた。街道の重要地として、港の利権がそうさせたが、近世幕藩体制では若狭国(小浜藩)に編入された。そして、明治維新後、曲折があったが、福井県として2つの国は合併した。戦前、帝国日本における日本海側の2つの重用な港、敦賀港と舞鶴港はそれぞれ国際港と軍港として役割をはたしてきた。本日、この両都市が自動車専用道路で結ばれた。交通インフラで後れをとっていた若狭地方は地域振興に燃えている。敦賀の町はますます「通りすがりの町」になっていくのか、敦賀の歴史が暗示する。、

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三方五湖

2014年7月16日 (水)

水戸天狗党

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東京神楽坂に、以前行き付けであった小さな小料理屋がある。女将は水戸の出身。常連さんも水戸出身の方が多かった。酒席の話題で、水戸天狗党が話題になり、終焉の地が敦賀であることから、数人の常連さんを敦賀の水戸天狗党墓所を案内することになった。メンバーのひとり、O氏は首魁武田耕雲斎の墓をはじめひとつひとつ丹念に見入っていた。その中、二三の墓名を知っているという。O氏の先祖は水戸家中の侍だった。敵対する門閥派の侍だったという。天狗党VS門閥派の抗争で、水戸藩では幕末多くの有意な人材を失った。今も水戸では骨肉の争いを天狗というとか。O氏は、352名の斬首が行われた墓所に、他の人たちよりより深く合掌していた。

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水戸天狗党墓所

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