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2015年1月

2015年1月30日 (金)

敦賀今昔 焼け残った建物

Sityousya_2消えた建物  左の画像は戦前からあった市庁舎である。(市立敦賀格物刊蔵)町の旧市街地が先の大戦で戦災を受けたが、焼け残った数少ない建物のひとつだった。港近くにあり、戦前の港繁栄を偲ばせる建物でもあった。しかし、昭和49年新市街地(通称木崎通り)に新庁舎ができ、そして旧市庁舎は消えた。昭和30年代からの高度成長に乗って敦賀も都市のスプロール化が進み、旧市内の衰退空洞化が進んだ、ひとつの象徴でもあった

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右の建物は国際港敦賀の繁栄の中、地元実業家大和田荘七が朝鮮半島より赤牛を輸入したおり、検疫した建物である。この建物も数年前に姿を消した。私有地にあったためでもある。

復元されたされた建物 明治15年鉄道が日本海側に初めて敦賀に敷設された。その後、日露戦争で大陸に権益を得た日本は、その経営のために敦賀~ウラジオストク間の定期航路を、そして東京~敦賀~ウラジオストク~(大陸横断)~ペテルブルグの大陸横断連絡ラインが確立し、敦賀港にはボートトレイン(欧亜国際連絡列車)が運航した。

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その頃の、敦賀港は日本海側で独り勝ちのように繁栄をわがものにした。国際港としての色彩を強くし、幾多の著名人が敦賀港から大陸に渡り、大陸からはナチスに迫害されたユダヤの人たちがやって来た。敦賀の旧制中学校の学生は下駄ばきで大陸への修学旅行に出かけたという。その頃の敦賀港駅舎が復元されている。内部は鉄道資料館として利用されている00002362m

リニューアルされている建物

焼け残った建物で、現在リニューアルされ、観光のために利用される建物がある。そのひとつは、市立敦賀博物館。(下画像)旧大和田銀行だが、博物館として利用されてきた。内部を復元して、往時の豪華さを再現している。その代り、博物館としての展示スペースは縮小される。戦前の敦賀港の繁栄を再現し、観光の一助にするというものである。

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戦前大正・昭和期の内部の豪華さが、はたして観光の目玉になるか、否かは異論もあるが、少なくとも希少なものではない。もう一つは、赤レンガ倉庫の耐震工事と内部リニューウアルと展示物設置とレストラン経営である。展示物は巨大な戦前敦賀港と町並のジオラマである。大きさは日本一だという。この赤レンガ倉庫のリニューアルも観光行政である。博物館とその周辺、赤レンガ倉庫と人道の館、ともども往時の敦賀港の繁栄を髣髴させ、港周辺、旧市街地のにぎわい創出をめざすものである。

P9040042_01_4焼け残った建物、殆どは戦前敦賀港の繁栄を偲ばせるものであるが、取り壊された建物、復元・リニューアルされたもの、一貫した歴史建造物?の保存方針は見られない。町興しの起爆剤になれば良いと思うが。戦前敦賀の風景は古写真で。

 

2015年1月24日 (土)

敦賀今昔 絹掛けの松

Kinukakematu_2南北朝争乱、金ヶ崎城に立て籠もった南朝軍は衆寡敵せず餓死寸前で敗れた。南朝軍に担がれた桓良(つねなが)親王は逃れるとき、金ヶ崎城下の松に衣を掛けたという、伝承がある。その松が右の画像である。敦賀新港が建設されるまでは、この松から山上の金ヶ崎城(月見御殿)跡までは、岩がむき出す絶壁だった。申し訳程度に残された松、史跡としての価値有無によってのこされたのか、定かではない。Kinukakegen歴史を語る史跡、自ら破壊するもの、現在の観光事業に利用するもの、それぞれ。だが、開発と個人所有のはざまで、数少ない歴史的建造物、史跡が破壊されていく。

2015年1月18日 (日)

敦賀今昔 敦賀港

Turugaminatost敦賀は天然の良港と地理的位置によって、古来よりその存在性をもっていた。交通手段が人馬の時代から。明治以降、大陸への進出の拠点として敦賀港は未曾有の繁栄をもたらした。(敦賀市立博物館発行図録『古写真が語る敦賀』から)

ユーラシア大陸・ヨーロッパへの連絡港となった敦賀港へは明治15年鉄道が敷設された。Borttrain日本初のボートトレインが設営されたボート・トレイン(Boat train)、あるいは船車連絡列車(せんしゃれんらくれっしゃ)は、船と 連絡を図る目的で港へ乗り入れて運行された列車だが、当然問陸への連絡船(欧亜国際連絡船)の定期航路ああった。旧制商業高校の修学旅行は大陸であり、授業カリキュラムに「ロシア語」もあった。ナチスに追われて上陸したユダヤ人も敦賀港であった。

 

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