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2014年8月

2014年8月29日 (金)

気比さん祭

Kehijingu

お盆が過ぎ、秋の気配が色濃くなると、9月2日から15日、気比神宮の「長祭り」が始まる。その間、市民祭りも開催される。山車揃え、カーニバル、市民参加盆踊り大会、もちろん神輿も。市民が参加し、もっとも大きな祭り。気比さんと親しまれる気比神宮は敦賀の町の中心にあり、敦賀を代弁する存在でもある。そして、敦賀の歴史は気比神宮とともにあったと言っても過言ではない。それは、敦賀の町が、Dasi

 

歴史上その存在価値を変遷させたことと、パラレルである。気比神宮の例大祭は古くからおこなわれているが、山車(敦賀では「やま」と呼ぶ)巡行は各町内から出される。室町期織田信長も見物したという。往時はもっと数が多かった、と伝えられる。しかし、一堂に揃うと壮麗ではある。

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2014年8月17日 (日)

お盆過ぎ

Tourounagasi子供の頃、旧盆が過ぎると親から海で泳ぐことを禁じられた。クラゲが多くなる。そして、夏休みの宿題をやることを言われた。お盆を過ぎると夏が過ぎゆくのを感じたものだ。8月16日、気比の松原では「灯篭流し」が行われる。精霊流しだ。この仏事とともに、盛大な花火が打ち上げられる。しかし、今年は天候不順、開催が危ぶまれたが、決行された。小雨が降っていた。家の中で、打ち上げる音を聞いていた。窓ガラスを響かせる。近年打ち上げ数が減ったとか、「日本海側最大の花火大会」の宣伝文句も聞かない。地方経済の停滞?原子力発電所の長期停止が原因?夕凪の海面にゆらゆらと浮かぶ数多くの灯篭の風景がいい。

2014年8月 4日 (月)

近代化への道

Azoto国道8号線を敦賀市阿曾地区から五幡に向かうと、落石防禦鉄柵の中から海側に左の画像の手掘りの古いトンネルと旧8号線が見える。明治初期、福井県で最初の手掘りトンネルある。車両のための道路国道8号線(敦賀街道)の一部である。明治政府は近代国家建設を急いだ。日本海側最初のの鉄道敷設が敦賀まで明治15年、それに呼応するように、国道8号、27号線、車両のための道路が開設された。昭和20年代、「くろがね」なるオート三輪で未舗装で、ほとんどの区間が1車線で、海岸線を縫って走った。遠い記憶の中にある。国道27号線は、鉄道の拠点である敦賀への貨物輸送のためでもあったが、軍港京都府舞鶴港と敦賀を結ぶ戦略道路の役割を担った。

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太平洋戦争、この小さな町は大陸経営の戦略港であるがゆえに、米爆撃機の洗礼を受けた。市街地のほとんどは焦土となった。しかし、戦後復興のための道路つくりは、大英断のもと広い道路が整備開設された。昭和20年代のころはほとんど未舗装で、通行車両もまばらであった。広い道路の両脇は人の歩行によって固められたが、中央付近は盛り上がり雑草が生えているところがあった。交差点で子供たちは野球などやって遊んだ。焼け跡に整備された広い道路は敦賀のインフラ資産となった。

しかし、戦後日本経済の高度成長と共に、モータリゼーションの進展は運送体系を席巻する。敦賀を走る国道には郊外にバイパスができ、高速道路も整備された。旧の道路沿いにあった飲食店などが廃業する。道路の近代化は町のにぎわいを削ぎ、町の様相を変えていく。古来からの結節点としての存在性から、敦賀は通過点、「jジャンクションの町」と化していくのでは?

2014年8月 2日 (土)

古い道

Kinome_3敦賀は関ヶ原のように衝地(くち)のような地域にある。四方からの道が交差する地域であるが、敦賀はその一方すなわち北法が日本海に面している。その他三方が山に囲まれている。当然、古来より交通の要地になる。日本海海運の歴史は割愛する。敦賀には、越への道

木の芽古道をはじめ、深坂古道 (塩津街道)、鹿蒜道、、

七里半越え(西近江路)、黒河越

えなどがある。そのうち現存するのは、木の芽古道と深坂古道の一部である。木の芽古道は北陸への道で、天朝7年(830)頃までに開通し、明治初期まで官道であった。その後、海岸沿いに車両の道、敦賀街道が開通したのち廃道となった。千年の官道であった。幾多の旅人が行き交い、曹同宗開祖道元禅師、一向宗蓮如もこの峠を越えた。

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 深坂古道は近江の国へ通じる。別名塩津街道とも言い、琵琶湖水運の拠点塩津に通じる。古代より紫式部をはじめ、貴人も多く都よりこの道を経て、越の国に向かった。今は、この古道はハイキングコースになっている。またこれらの街道の墓には、賤ヶ岳の戦い、越前国朝倉氏滅亡のっ高いとなった刀根坂の戦いの古戦場である刀根坂越えがある。この刀根坂ルートは近江国に最も勾配が少なく、日本海側最初の鉄道開設となった。その他に、日本書紀には角鹿海の塩が畿内に運ばれた説話や、近江商人が敦賀、若狭地方の塩を運んだ「塩の道」があった。これらの古い道は、連綿としてその役割を果たしてきた。それは取りも直さず敦賀の中継点としての重要性を示す。

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