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2014年7月

2014年7月24日 (木)

南北朝争乱古戦場 金ヶ崎散歩

Img_0062金ヶ崎天筒山の古戦場にいくつかの神社が鎮座する。散策の折、それぞれの神社に柏手を打つ。金崎宮の駐車場から参道の石段を登る途中、右手に小さな神社「愛宕神社」がある。
明治23年創建の金崎宮より以前からある。江戸期の石灯篭などあり、説によっては、延喜式神明帳にある越前国敦賀郡の「金前神社」と比定する。真偽は定かではない。梅雨、周囲のアジサイが冴える。

石段を登りきると、金崎宮が桜の木々に囲まれて鎮座している。Kaneyoru


皇居前の楠正成の銅像のように、南北朝争乱の南朝を奉ずる神社である。
尊良(たかなが)親王・桓良(つねなが)親王を祀る。桜の名所で、春には市民憩いの場でもある。また、この神社には桜の小枝を交換する「縁結び」の風習がある。今は、男女の恋情を交わす行事になっている。この金崎宮には男女の参拝が多いようだ。艶なることではある。

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金崎宮本殿隣に摂社絹掛神社がある。延元2年(1623年)金ヶ崎城落城の際、総大将新田義顕以下自刃した321人の無名兵士を祀る。氏名が判明するのは十数名、近畿、中国、四国からの兵士であり、敦賀を中心とした北陸地方からも多い。籠城五か月余り、食糧尽き果て、馬をも喰らい、果てた。この神社に、ふと深く祈る。

金崎宮から登ること5分ほどで、金ヶ崎城址(別名月見御殿跡)に着く。海抜86mのところにあるが、敦賀湾に面した断崖にある。断崖下の敦賀新港から敦賀湾を一望できる。、Tukimiten
金ヶ崎から天筒山に続く遊歩道には、一~三の木戸、兵糧庫跡などの史跡がある。兵糧庫跡からは焼米が出土した。
Kidoyuuho

木戸跡tp遊歩道

2014年7月20日 (日)

舞鶴若狭道全線開通

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舞鶴若狭自動車道「敦賀衣掛大橋」(全長560メートル)

本日7月20日午後3時、敦賀から若狭地方を通って舞鶴方面に結ばれる「舞鶴若狭自動車道」が全線開通した。若狭国(江戸期小浜藩)現在では福井県に含まれるが、木の芽山地を境に苓北・嶺南地方に二分される。もともと2つの国、歴史も文化も多分に相違する。敦賀から若狭地方(嶺南)の言葉は京都、大阪の上方弁に近い。その中で、敦賀は古代から中世まで、越前国の入り口として越前国に属していた。街道の重要地として、港の利権がそうさせたが、近世幕藩体制では若狭国(小浜藩)に編入された。そして、明治維新後、曲折があったが、福井県として2つの国は合併した。戦前、帝国日本における日本海側の2つの重用な港、敦賀港と舞鶴港はそれぞれ国際港と軍港として役割をはたしてきた。本日、この両都市が自動車専用道路で結ばれた。交通インフラで後れをとっていた若狭地方は地域振興に燃えている。敦賀の町はますます「通りすがりの町」になっていくのか、敦賀の歴史が暗示する。、

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三方五湖

2014年7月16日 (水)

水戸天狗党

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東京神楽坂に、以前行き付けであった小さな小料理屋がある。女将は水戸の出身。常連さんも水戸出身の方が多かった。酒席の話題で、水戸天狗党が話題になり、終焉の地が敦賀であることから、数人の常連さんを敦賀の水戸天狗党墓所を案内することになった。メンバーのひとり、O氏は首魁武田耕雲斎の墓をはじめひとつひとつ丹念に見入っていた。その中、二三の墓名を知っているという。O氏の先祖は水戸家中の侍だった。敵対する門閥派の侍だったという。天狗党VS門閥派の抗争で、水戸藩では幕末多くの有意な人材を失った。今も水戸では骨肉の争いを天狗というとか。O氏は、352名の斬首が行われた墓所に、他の人たちよりより深く合掌していた。

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水戸天狗党墓所

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