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2016年2月 1日 (月)

SLと国登録有形文化財

Tontuzuku

 

今から、50年余年前、北陸トンネルが開通した。同時に電化された。それまでは、木の芽山地をSLが走っていた。D51重連で、煙を喘ぐように吐き走った。そして、トンネル、またトンネル。煙が車内に入ってくる。窓を閉めるが、車内はうっすらと白く濁る。夏は蒸し風呂のように暑くなる。難行苦行。杉津駅があった。列車が停車すると、一斉に窓を開け、新しい空気を吸う。杉津駅から敦賀湾を望む。絶景。大正天皇がこの風景を堪能された為、列車の出発が遅れたという。Suizu

この旧北陸線には11のトンネルとスィッチバック跡、線路のの下を通る暗渠、ロックシェッドなどが残っている。明治期の鉄道資産としてこのほど国登録有形文化財に選定された。

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2015年10月 1日 (木)

集落と寺社

Kehitorie古代、敦賀郡(こおり)には延喜式神明帳(延長5年927年)によると気比神宮をはじめ43座式内社があったとされている。これは越前国126社のうちであり、若狭国42社に匹敵する。それは古代における、畿内に近く、越の国の始まりである敦賀の存在感を表す。 式そ内社に限らず村社、郷社など多くの古社ある。それぞれの神社と寺を各地の集落が護っている。集落は数軒のそれから数十軒に及ぶがそれらを古来護っている。祭礼、神事、寄合が行われた。集落の人々の共同活動の場であり、精神的支柱でもあった。

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敦賀の集落形成は、弥生期吉河遺跡にみるよに古い。古代より各地の集落は連綿として寺社を護ってきた。江戸期の敦賀津を中心とした町よりもそれを取り巻く集落には旧い家々が多い。

2015年9月27日 (日)

金ヶ崎

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金ケ崎は南北朝争乱、天筒山は金ヶ崎の退き口の古戦場である。それらの史跡が残っており、遊歩道で巡ることができる。最高峰が171m、多くの老若男女が散歩を楽しんでいる。春の新緑、秋の木々に混じる紅葉もいい。

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南北朝争乱、南朝側の新田義貞他気比神宮の社家の兵および近在の無名戦士が金ヶ崎城に立て籠もる。しかし、幕府軍の圧倒的な兵力に囲まれ、最後は馬をも喰って餓死もしくは自決した。左画像 金崎宮摂社絹掛神社は総大将新田義顕他無名戦士含めて321名が餓死、自刃した。彼らを祀る。下画像 本宮は尊良(たかなが)親王、桓良(つねなが)親王等公家たちを祀る。

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中世、敦賀付近の戦いは新旧勢力の戦いであり、南北朝争乱は権門勢家の衰退と武士の台頭であった。新田軍を敦賀で迎えたのは気比社の気比氏治であり、この敗北で気比社の社勢は衰退に向かい、後の織田信長の越前国支配でより大きく傾いた。

現在は桜の名所であり、花換え祭など「縁結びの神」として、若い男女の参拝者を集めている

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2015年6月19日 (金)

板碑(いたび)

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敦賀の各寺院の墓所には多くの板碑が残っている。板碑は中世仏教で使われ、板状の石板に梵字(種字)、供養者名、供養年月日、供養内容を刻む。現代の卒塔婆に繋がる供養搭である。敦賀の郷土史家橋詰久幸氏が丹念に調査し、『敦賀市史研究2』に詳しく論じられている。日蓮宗、曹同宗の寺院に多い。ほとんどは刻まれた文字は風化して読み取れない。しかし、山積みされた無縁墓の中にあるもの、草木に埋もれ放置されたままを見ると「歴史の無常」を考える。

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2015年1月30日 (金)

敦賀今昔 焼け残った建物

Sityousya_2消えた建物  左の画像は戦前からあった市庁舎である。(市立敦賀格物刊蔵)町の旧市街地が先の大戦で戦災を受けたが、焼け残った数少ない建物のひとつだった。港近くにあり、戦前の港繁栄を偲ばせる建物でもあった。しかし、昭和49年新市街地(通称木崎通り)に新庁舎ができ、そして旧市庁舎は消えた。昭和30年代からの高度成長に乗って敦賀も都市のスプロール化が進み、旧市内の衰退空洞化が進んだ、ひとつの象徴でもあった

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右の建物は国際港敦賀の繁栄の中、地元実業家大和田荘七が朝鮮半島より赤牛を輸入したおり、検疫した建物である。この建物も数年前に姿を消した。私有地にあったためでもある。

復元されたされた建物 明治15年鉄道が日本海側に初めて敦賀に敷設された。その後、日露戦争で大陸に権益を得た日本は、その経営のために敦賀~ウラジオストク間の定期航路を、そして東京~敦賀~ウラジオストク~(大陸横断)~ペテルブルグの大陸横断連絡ラインが確立し、敦賀港にはボートトレイン(欧亜国際連絡列車)が運航した。

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その頃の、敦賀港は日本海側で独り勝ちのように繁栄をわがものにした。国際港としての色彩を強くし、幾多の著名人が敦賀港から大陸に渡り、大陸からはナチスに迫害されたユダヤの人たちがやって来た。敦賀の旧制中学校の学生は下駄ばきで大陸への修学旅行に出かけたという。その頃の敦賀港駅舎が復元されている。内部は鉄道資料館として利用されている00002362m

リニューアルされている建物

焼け残った建物で、現在リニューアルされ、観光のために利用される建物がある。そのひとつは、市立敦賀博物館。(下画像)旧大和田銀行だが、博物館として利用されてきた。内部を復元して、往時の豪華さを再現している。その代り、博物館としての展示スペースは縮小される。戦前の敦賀港の繁栄を再現し、観光の一助にするというものである。

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戦前大正・昭和期の内部の豪華さが、はたして観光の目玉になるか、否かは異論もあるが、少なくとも希少なものではない。もう一つは、赤レンガ倉庫の耐震工事と内部リニューウアルと展示物設置とレストラン経営である。展示物は巨大な戦前敦賀港と町並のジオラマである。大きさは日本一だという。この赤レンガ倉庫のリニューアルも観光行政である。博物館とその周辺、赤レンガ倉庫と人道の館、ともども往時の敦賀港の繁栄を髣髴させ、港周辺、旧市街地のにぎわい創出をめざすものである。

P9040042_01_4焼け残った建物、殆どは戦前敦賀港の繁栄を偲ばせるものであるが、取り壊された建物、復元・リニューアルされたもの、一貫した歴史建造物?の保存方針は見られない。町興しの起爆剤になれば良いと思うが。戦前敦賀の風景は古写真で。

 

2015年1月24日 (土)

敦賀今昔 絹掛けの松

Kinukakematu_2南北朝争乱、金ヶ崎城に立て籠もった南朝軍は衆寡敵せず餓死寸前で敗れた。南朝軍に担がれた桓良(つねなが)親王は逃れるとき、金ヶ崎城下の松に衣を掛けたという、伝承がある。その松が右の画像である。敦賀新港が建設されるまでは、この松から山上の金ヶ崎城(月見御殿)跡までは、岩がむき出す絶壁だった。申し訳程度に残された松、史跡としての価値有無によってのこされたのか、定かではない。Kinukakegen歴史を語る史跡、自ら破壊するもの、現在の観光事業に利用するもの、それぞれ。だが、開発と個人所有のはざまで、数少ない歴史的建造物、史跡が破壊されていく。

2015年1月18日 (日)

敦賀今昔 敦賀港

Turugaminatost敦賀は天然の良港と地理的位置によって、古来よりその存在性をもっていた。交通手段が人馬の時代から。明治以降、大陸への進出の拠点として敦賀港は未曾有の繁栄をもたらした。(敦賀市立博物館発行図録『古写真が語る敦賀』から)

ユーラシア大陸・ヨーロッパへの連絡港となった敦賀港へは明治15年鉄道が敷設された。Borttrain日本初のボートトレインが設営されたボート・トレイン(Boat train)、あるいは船車連絡列車(せんしゃれんらくれっしゃ)は、船と 連絡を図る目的で港へ乗り入れて運行された列車だが、当然問陸への連絡船(欧亜国際連絡船)の定期航路ああった。旧制商業高校の修学旅行は大陸であり、授業カリキュラムに「ロシア語」もあった。ナチスに追われて上陸したユダヤ人も敦賀港であった。

 

2014年12月 8日 (月)

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例年より早い雪がやって来た。北西の季節風にのって雪が吹き付ける。風景は一変する。波が荒々しく浜辺を撫でる気比の松原、しかし、古代渤海使船もこの季節風によって運ばれてきたのか。水戸天狗党も雪中険しい峠越えで敦賀に至り、そして352名が刑場の露と消えた。

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2014年11月28日 (金)

金ヶ崎の思い出

Kanegasaki153431026_2小学生の頃の(昭和25年~30年)夏、近所の友達たちと金ヶ崎へ海水浴に行った。大小の岩が点在する海辺は恰好の遊び場だった。岩から岩で競泳したり、岩から飛び込む。泳ぎを覚え、そして少しづつ上手くなっていった。潜っては、しただみやさざえなどの貝も採った。雲丹を採って、中の黄色がかった身だけを取り出し、ざるに敷き詰めてtいる大人もいた。天日に干し、塩をふって「塩雲丹」を造る。体が冷えると、石がゴロゴロする岸で横になって、石のあたたかさで気持ち良くなる。木々から聞こえてくるあぶら蝉の脂っこい鳴き声に聞き入る。 

154h006蝉の声がひぐらし蝉のそれになる頃、あわてて帰路に着く。つづら折りの細い道を登ると、鴎ケ崎に茶店があった。連れだってサイダーやラムネを一気に飲む。そして、リーダー格の上級生の掛け声で、いつものように金崎宮から参道の石段下までの競争となる。最下級生だったが、私はいつも中ごろの順位だった。石段を駆け下りる時、いつも少し怖かった。

画像提供 敦賀市立歴史博物館 展示図録『古写真が語る敦賀』より

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←左図は現在の鴎ケ崎からの眺望

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2014年11月13日 (木)

天筒山のもみじ

Tedutukouyou例年11月末から12月初旬ごろ、天筒山のもみじは見ごろとなる。庭園や寺院のそれや、全山錦を織りなすのもいい。天筒山のもみじは手入れされていない木々の中にある。多くの山で観られる風景だが、毎年の紅葉する日が楽しい。天筒山の、それも先の大戦で、焼夷弾によって焼けた範囲で、その後木々が育ったところに多くある。

Tyoujyou_3金ヶ崎から天筒山一帯に遊歩道が整備されている。金ヶ崎一帯の山にはもみじはないが、古木の常緑樹がうっそうと山を覆っている。金崎宮が鎮座する山に似合う。宮の周辺には桜があり、名所となっている。天筒山にもっともみじを植林して、もみじの名所にするといい、とも想ったりする。天筒山頂上の休憩所でゆっくり休む高齢者の向こうで、もみじほ燃えていた

 

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